鳥越城跡(福井県)
 日本の城に高い石垣と天守が造られるようになったのは織田信長以降だといわれています。それまでは主として見晴らしの良い山の頂上に自然の高低差を利用した土塁や空堀によって防御を固めた砦であったと思われます。右の写真は福井県の山の奥にある山上に築かれた砦の一つで、一向一揆勢が織田の軍勢と戦って敗れた山城の遺跡です。戦の多かったこの頃は、城は攻防の拠点であり、防御のための石垣や自然の地形を利用した土塁や空堀で築いた縄張りの山城が主流でした。あとの時代になると平地の小山の上に城郭を造り、周囲を水堀で囲い、高い石垣で防御する城へと移っていきました。周りには城下町を造って商業や流通を盛んにして人を集め力を蓄積し、力と権威を誇示するために城下町から見上げる天守閣を立てるようになったのでしょう。
 日本各地には戦のたびに城が築かれることもあって数しれないほどの城があったとされますが、徳川幕府の命で一藩一城とされてその数は大きく減り、さらに明治になって廃城令が出され、大半は天守閣が取り壊されてしまいました。現在、江戸時代の木造の天守が残っているのは12城のみです。歴史的な背景とも絡みあって木造の天守は日本の木造建築の代表的な遺産の一つであり、その内の5つの城が国宝の指定になっています。また明治以降に木造で天守が復元された城も5つあります。
 これまで車で各地を旅行する度に近くの城を訪ね、12の残存天守のうち11の城を写真に納めてきました。それぞれ天守閣の美しさ、石垣の美しさのみならず、その立地や城の攻防の戦略的な工夫がなされた縄張りの特徴、お城を中心に人々の生活があった城下町の匂いを写真に納めましたので紹介します。 (2022.3)
江戸時代の天守が残っている城
  弘前城 (青森県)
  松本城 (長野県)(国宝)
  丸岡城 (福井県)井県)
  犬山城 (愛知県)(国宝)
  彦根城 (滋賀県)(国宝)
  姫路城 (兵庫県)(国宝)
  松江城 (島根県)(国宝)
  備中松山城 (岡山県)
  丸亀城 (香川県)
  伊予松山城 (愛媛県)
  宇和島城 (愛媛県)
  高知城 (高知県)
明治以降に復元された木造天守
  白石城 (宮城県)
  白河小峰城 (福島県)
  新発田城 (新潟県)
  掛川城 (静岡県)
  大洲城 (愛媛県)
犬山城(国宝)

 
■所在地: 愛知県犬山市
城郭の地形: 尾張と美濃の国境の木曽川沿いの高さ約40mほどの小山の上にある平山城です。背後を木曽川に守られ、対岸から天守の美しい姿が望めます。
■天守の構造: 高欄つき望楼型3層4階の構造で、天守の高さは天守台込みで24m。天守は地上2階に相当する天守台の石垣の上に立つていますが、天守の入口は地上階にあります。最上階の外壁に生木の柱がむき出しになっている珍しい天守はここと丸岡城のみ。
■天守の建造年: 1585年頃(1601年説もあり)。日本最古の天守です。
■主な築城主/城主: 織田信康、池田恒興、豊臣秀次、平岩親吉、尾張徳川藩の付家老・成瀬正成。
■概要: 国宝指定の5天守のうちの一つですが、2004年まで成瀬家の個人所有で管理されてきた珍しい城です。天守最上階には代々の成瀬家の城主の写真が飾られています。城の縄張りから見ると、守りが強固な城とは言えず、攻撃拠点としての性格が強い。
木曽川の対岸から見る犬山城 鉄門への石段 鉄(くろがね)門 鉄門を潜ると見えてくる天守
  天守への入口は石垣の地階で、天守台の地下2階になります 付櫓は天守の入口を守る守りの要 地下2階の入り口
地下1階は兵糧や武器などの倉庫でしょうか? 天守を支える太い梁が見えます 天守1階。左奥は東南の付櫓部分 天守4階に飾られた成瀬家歴代の城主の写真 城の西側、天守の背後は木曽川
天守から見下ろす鉄門 亀の甲に乗った桃の魔除け瓦 城の南に広がる城下町 今でも城下町の風情が少し残されています
松本城(国宝)
■所在地: 長野県松本市
■城郭の地形: 信濃の国、西に北アルプスを望み、北は長野市、南は諏訪に通じる山に挟まれた松本盆地の中央にある松本市の市街地の中心にあります。本丸に残る建物は天守部分(大天守と乾小天守、辰巳附櫓、月見櫓)と黒門、二の丸には太鼓門のみです。
■天守の構造: 北に乾小天守と東側に附櫓と月見櫓を配する複合連結式の天守。いずれも国宝指定です。5層6階の木造天守は各層の下半分が黒漆塗りの板張りが特徴。天守の高さは天守台含みで29m。
■天守の建造年: 今の天守は1594~5年(石川康長の時代)と推定される。
■主な築城主/城主: 戦国時代の信濃国守護の小笠原氏(深志城が松本城の前身)、武田家、織田家、徳川家・小笠原貞慶(旧領を回復して松本城と改名)、石川数正、石川康長、松平康長など。江戸時代は代々戸田松平家の居城であった。
■概要: 市街地の真ん中にあり、本丸も市街地と同じ高さの典型的な平城です。お堀の水面が浅く、お堀に写る天守の姿がきれい。城の櫓には不釣り合いな月見櫓があるのもここだけ。 戦闘的には城壁も低く、堀も浅いので防御能力は低いとみる。今は無い外堀も含めた惣構えの城郭での守りの形だろうか。
訪れた日は月見櫓と埋橋の2つの見どころが工事中で写真がないのが残念。
内堀に写る天守が美しい お堀には柵も無く、水面には足が届くほどでビックリ 本丸まですべて高さがない平地の城 黒漆塗りの板張りの外壁が松本城の特徴です
月見櫓(白幕)は3代将軍家光を歓迎するために建造したが、使われず 内堀の外から天守が近いのと、お堀が浅いので防御の性能は疑問 内堀を渡ると黒門・二の門、中は桝形構造 桝形の先に黒門・一の門
一の門を潜ると本丸の広い空き地。ここは本丸御殿のあったところ 近くから見上げると大きくて高い天守です   急な階段はどこも同じです これが国宝の認定書
埋橋ごしに天守を捉えるベスト写真ポイントが工事中でダメでした 復元工事中の太鼓門 松本は地下水に恵まれた街です 今は大きな市街地です。昔の城下町も大きさが想像されます
彦根城(国宝)

 
■所在地: 滋賀県彦根市
■城郭の地形: JR彦根駅からすぐ、琵琶湖を背にした標高50mの小山の上にある平山城
■天守の構造: 3層3階で、切妻破風、入母屋破風、唐破風を多様に配し豪華絢爛な美しさを誇る。3階は高欄のある望楼型天守で、高さは天守台を含めて21.5m
■天守の建造年: 1606年、最終の完成は大阪の陣のあと1622年と言われる。
■主な築城主/城主: 徳川四天王のひとり井伊直政が石田三成の旧領佐和山に入り、子の直継が佐和山城に代わって彦根城を築城開始。代々彦根藩井伊家の居城です。
■概要: 石田三成の領地であったところに大阪城を包囲する目的で造られた城で、実戦を想定した堅固な縄張り。西と北が琵琶湖に(昔は)接しており、至る所に防御の細工が見られて面白い。表門から登る道と、大手門から登る2つのルートがあり、どちらも急坂です。出口ルートになっている「黒門」の先には、のちに平和な時代になって大名庭園「玄宮園」(池泉回遊式庭園)や直弼が誕生した「槻御殿」のある楽々園などが造られました。
彦根城築城400年祭のイメージキャラクタ「ひこにゃん」が人気、
彦根城の詳細MAPは公式ホームページを参照ください。
大手門側へ向かう途中の内堀 表門 橋を渡ると右手には彦根城博物館(表御殿あと)に「ひこにゃん」がいます   いきなり急な坂を登ります 「鐘の丸」と「天秤櫓」を結ぶ廊下橋。表門と大手門からの道はここで合流します
「鐘の丸」への登り坂。登ってくる敵をここで喰い止めます 「天秤櫓」 秀吉の長浜城の大手門を移築したものとも云われています 天秤櫓は江戸時代の修復で石垣も積み直されています 彦根城の天守はかなりの高所にあります。どこまでも登ります
時報櫓 城下に時を知らせたもの 太鼓門 本丸の表を固める門です 本丸に到着 牛蒡(ごぼう)積みの石垣の天守
  天守の屋根を支える太い梁 西の丸側から見る天守 玄宮園 城内の東北部、内堀の外にある旧大名庭園です 国内に唯一残る馬屋
姫路城(国宝)
■所在地: 兵庫県姫路市
■城郭の地形: JR姫路駅を北に出ると正面の大通りの先に天守が見えます。本丸は高さ45.6mの姫山の上にある平山城です。
■天守の構造: 高さは天守台を含めて46mの5層6階の大天守と小天守の連立式天守。
■天守の建造年: 今の城郭が完成したのは関ケ原のあと、池田輝政による1610年築城です
■主な築城主/城主: 前身の姫路城は1346年赤松貞範の築城で、黒田氏の居城となり、黒田孝高(官兵衛)が秀吉に城を献上した話は有名。池田輝政、本多忠政、酒井忠恭以降は酒井家が歴代城主
■概要: 姫路城は世界遺産です。大天守、3つの小天守と4つの渡り櫓が国宝に指定されています。連立式天守と各所に設けられた櫓や石垣と渡り櫓に囲まれ、複雑な登城ルートで堅固な守りの城です。秀吉が西国攻めの拠点として縄張りが造られているので、戦のための城です。天守まで到着するルートが複雑で、大きい城に似合わず通路は狭く、天守に近づくほど通路は狭くなり、要所にある門は小さくなって敵を欺く迷路のようになっています。渡り櫓の鉄砲狭間から常に狙われるなど、攻め手と守り手それぞれの目線で順路をめぐると非常に面白いです。ところが、この城は一回も戦にあったことが無く、また明治維新では官軍に包囲されましたが戦いの寸前に無血開城し破壊を免れました。
JR姫路駅正面の大通りからはお城の天守が正面に聳えて見える 市街からは高くは見えないが、本丸は標高45.6mの高さがあります 西側にかけての内堀、難攻不落の戦闘力を誇る城です この立派な大手門は昭和13年に新造されたもの
大手門を入ると「三の丸」広場に出る。 春は桜が満開 「菱の門」場内に残っている門の中で最大の大きさ 大天守と西小天守(右)と乾小天守(左) 「菱の門」を入るとすぐ目の前に「いの門」
「いの門」の右にある「三国堀」の上に高く聳える天守 りの渡り櫓がはっきり見えます 天守へ行くルートはいくつかあります。それを辿るのが姫路城の面白い所 「いの門」を過ぎてすぐ右手へ進むと守りの堅い「ぬの門」へ出ます
「ぬの門」に対峙する高い石垣が「扇の勾配」と呼ばれる石垣 「上山里丸(二の丸)」の渡り櫓 播州皿屋敷に因んで「お菊井戸」と呼ばれる井戸 「りの門」を進み、真っすぐ進むと右手に「井郭櫓」、そのまま進むと天守の東を通り過ぎて北の腰曲輪へ出てしまう
通常ルートの「いの門」からまっすぐ「ろの門」へ進むと狭い通路になる 天守は前方だが、道は下っているので攻め手には戻り道と錯覚させる 道はさらに狭くなり、行く手の「にの門」は小さく、頭上から攻撃を受ける堅固な門で天守への道を塞ぐ 「にの門」を突破すると西北の腰曲輪に出、乾小天守が目の前に迫る。通路は左下の小さな「ほの門」で多勢の通行を阻む、西側からの唯一の門となります
「ほの門」は鉄製の埋門、横には土壁丸出しの「油壁」(城の謎の一つ)。この門を入ると乾小天守の北側の「北の腰曲輪」に出る。油壁に隠れた左の「水一の門」が天守への正しい通路 乾小天守の石垣にある「姥が石」 老婆が秀吉の築城に際して、石臼を献上して協力した話 「水曲輪」の門はさらに小さくなり、天守へ通じる通路とは思えない錯覚を呼ぶ 「水曲輪」の頭上には乾小天守や渡り櫓があって守りは堅い
いくつもの門を抜けて、ようやく天守の入り口へ到着です 2階の槍などの武具掛けの壁 天守最上階には、祟り伝説があり、もと姫山に祀られていた「刑部(おさかべ)神社」が祀られている 天守から真っすぐ姫路駅に通じる大通りが見え、眼下には備前丸、二の丸
先ほど通ってきたい、ろ、は、にの門が見える。左上が「西の丸」 西の丸の長い櫓は「長局」と呼ばれる。特別公開で中に入れた 長局には千姫に仕える奥女中が住んでいた部屋があります 千姫が休息場所に使っていた化粧櫓。(千姫の御殿は三の丸にあった)
平成の大修理は2009年~2015年の約5年かかりました 天守の大屋根を間近に見ることができました 天守の屋根に乗る平成のしゃちほこが目の前に 大修理後の姫路城が白く見える訳がこの瓦の目地漆喰です
姫路城の西側の侍屋敷あとに平成4年に開園された「好古園」 池泉回遊式日本庭園で、姫路城を借景としています 武家屋敷風の屋敷門や築地塀で区画された庭園です それぞれの区画ごとの趣向の庭があります
松江城(国宝)
■所在地: 島根県松江市
■城郭の地形: 宍道湖のほとり、遊覧船が浮かぶ内堀に囲まれ、標高29mの小山の上に天守が立つ平山城です。現在残るのは内堀に囲まれた本丸と二の丸で、堀を挟んで三の丸のあとには島根県庁が立っています。
■天守の構造: 入口に付櫓がある連結複合式望楼型の4層5階地下1階の天守。高さは天守台を含めて30m。入母屋屋根の2層の大きな櫓の上に2層の望楼天守を乗せたような外観で、下の層を中心に黒塗りの下見板張りの外壁が特徴。
■天守の建造年: 1611年 松江藩堀尾忠氏による
■主な築城主/城主: 堀尾氏の3代、京極忠高、松平直政、以後は松江藩松平氏の代々の居城
■概要: 内堀の内側の北側半分は亀田山の木々がおい茂った中に神社が2つある程度で、城郭の主要部分は南側に集中。そのため堀の外側に三の丸があり、御殿が建っていたという。大手門あとには大きな石垣のみが残されているが、かなり大きい立派な大手門であったと思わせる。
  昭和時代に一旦国宝の指定が解除されたが、2015年に天守建造年を確定する証拠の発見を受けて国宝の指定を受けた。
周囲を堀に囲まれた高い石垣が残っています。 大手門側の入口。お城は街の真ん中にあります 大手門は無く、大きな石垣だけがあります     太鼓櫓の高い石垣
南多門櫓。左へ曲がると一の門へ 本丸に出ました 現存天守の内、2番目の高さ 付櫓の石垣に天守の入り口があります
    天守の地下の井戸 天守を支える太い柱は入手困難なので合せ木で造られたものか? 最上階は四方が見渡せる広い窓が空いている 市街の向こうには宍道湖が見えている
東の石垣は崩れやすく、築造に人柱の伝説があります 北の稲荷神社の横を抜けて稲荷橋から城を出ると塩見縄手が近い お堀沿いの塩見縄手には昔の武家屋敷が残されています 武家屋敷の一角には小泉八雲の旧居や記念館もあります
高知城

 
■所在地: 高知県高知市
■城郭の地形: 高知平野の中央、高知市街の真ん中で、県庁、市役所に隣接しています。標高44.4mの孤立丘陵・高智山(大高坂山)に築かれた平山城。
■天守の構造: 入母屋造りの櫓の上に望楼(廻縁高欄つき)を乗せた4層6階の独立式望楼型天守。天守台の石垣がなく、本丸に直接立つ珍しい天守で高さは18.5m。天守に並んで本丸御殿が残っているのもここだけ。
■天守の建造年: 1601年築城開始、1603年に本丸と二の丸が完成。1611年に三の丸ほかが完成
■主な築城主/城主: 山内一豊、その後も山内氏が歴代城主
■概要: 山内氏の前には、長曾我部元親が大高坂山に城を置いていたが、関ケ原の戦の後に徳川家康から土佐を拝領した山内一豊が大高坂山に城を築き始め(1601年)、1603年に入城した。1727年に大火にあい、城郭のほとんどが焼け落ちたが、1749年に現在の天守が創建時の姿のままに再建された。 大高坂山はのちに高智山と呼ぶようになり、高智→高知となった。
高知市街地の真ん中にあるお城です。はりまや橋も近くにあります 江戸時代のまま現存する追手門 右は三の丸の石垣。 何段もの石垣の上に天守があります
「鉄門」あと   右の石段の先に「詰門」(通常は閉鎖)があります 「詰門」の2階は左・本丸と右・二の丸を結ぶ橋廊下になっています
二の丸から本丸への橋廊下の入口 橋廊下は広く、家臣の詰所にもなったようです 橋廊下の本丸側出口は廊下門になっています 天守とその前にある懐徳館(本丸御殿)が昔のまま現存します
二の丸への登りの石段から見る天守 高い石垣 石垣に設けられた石樋(丸印)は雨の多い高知ゆえの珍しい排水の設備 地面の排水が石垣を崩さないよう排水溝の水を石垣の外へ落とします
丸岡城
■所在地: 福井県坂井市
■城郭の地形: 平野の真ん中にある小山の上に本丸がある平山城です。越前は一向一揆が盛んなところで、築城前は一向一揆の拠点はここより東4Kmの山麓にありましたがこれを滅ぼし、平地に城を築いて城下町をここに築きました。
■天守の構造: 2層3階の望楼型天守 高さは(天守台含み)18.2mで、麓から35mの高さがあります。 北陸で唯一の残存天守で、屋根には石の瓦が使われていました。
■天守の建造年: 築城は1576年で日本最古の天守と言われたが、詳細な調査で今の天守は1624~1644年の建造と判明。
■主な築城主/城主: 織田家の柴田勝豊がこの地に築城し、本多氏4代のあと、元禄以降は有馬氏が代々の城主。
■概要: 6mの天守台の上にある天守入り口までは手すりのない狭い急な石段で、上から降りるときは目がくらむほど。 昭和23年の福井大地震で天守は倒壊し、その部材をそのまま活用して昭和30年に復元されました。
初代丸岡藩主・本多成重の父 重次が長篠の合戦の陣中から妻に送った手紙(日本一短い手紙)「一筆啓上 火の用心 お千泣かすな 馬肥やせ」を記念して天守の横に石碑がたっています(お千とは成重のこと)
街中の駐車場から見上げる丸岡城 高い天守台石垣の上に天守入り口があります 石垣の右にある茶色の小さい石碑が「一筆啓上・・・」の石碑 狭くて急な石段(重要文化財のため手摺もつけられないとか)
    天守の最上階 日本一急な階段(67度とか)ロープがないと登れません
  東方の山裾に昔の拠点の中心(せん滅した一向一揆の拠点)がありました 石瓦 天守は昭和23年の福井大地震で倒壊
天守から落下してそのまま置かれている石のシャチホコ 一揆の勢力にも対抗できる立派な縄張りの城だった 城あとは霞ケ城公園となり、春には全体が桜が満開となる桜の名所です 「日本一短い手紙」で有名な本多作左衛門重次ゆかりの城です
丸亀城

 
■所在地: 香川県丸亀市
■城郭の地形: 海に近い平地の丸亀市内の街の真ん中にあって、標高66mの亀山に築かれた平山城で、街の中からお堀越しに仰ぎ見る、4段の総高さ60mに及ぶ日本一高い石垣が見どころの城です。
■天守の構造: 3層3階の独立式天守で高さは14.5m、天守台は1m程度の低いものです。
■天守の建造年: 生駒親正・一正親子が1597年から前身の亀山城を築城始めるが、徳川幕府が始まると一国一城政策により丸亀城は廃城となる。その後山崎氏、京極氏が再び築城を進め、1660年に完成。
■主な築城主/城主: 山崎家治、京極高和、京極郎徹
■概要: 北側の大手門側から見える本丸の石垣から、東側の三の丸にかけて高い石垣が続き、離れて見ると高くて広い石垣の城です。ドローンを使って写真を撮りたいと思わせる城ですね。(お城はどこもドローンは禁止ですがね) 南側の石垣は築城時代から難工事だったようですが、私が訪れたあと2018年の西日本豪雨などで南西の石垣が大規模に崩落してしまいました。
周囲にお堀をめぐらせ、高い石垣の上に天守が聳える美しい城です お堀ごしに見上げる天守。約60mほどの高さにあります 大手二の門(現存) 大手二の門の内側は一の門との間が桝形構造となっています
大手一の門(現存) 一の門は太い柱で上が太鼓櫓になっています 「見かえり坂」を上から振返る
(三の丸へ一気に登る急坂です)
「扇の勾配」と呼ばれる三の丸北東の高い石垣
さらに登りはきつくなる。修復された三の丸東張出し石垣 白い部分が新しく積み直されたところ。打ち込みハギ石垣がきれい ようやく平坦な三の丸へでました。これから二の丸へ向かいます 本丸へ登る最後の坂
丸亀城天守(現存) 3層3階の高さは14.5mと小さな天守です 丸亀城北側の石垣に沿って立つので市街地からよく見えています 高さ60mの石垣の上から街を見下ろす
まるで隅櫓のように小さい天守 藩主玄関先御門(御殿表門)(現存) お城の北西にある丸亀市立資料館から見る天守  
宇和島城

 
■所在地: 愛媛県宇和島市
■城郭の地形: 四国西岸の宇和島の海と河口の水路を利用した海城に近い地の利ながら、標高80mの丘陵に築かれた平山城です。堀に囲まれた5角形の城郭は高虎の目くらましの縄張りとして有名です。現在は海も堀も埋め立てられて市街地になっており、大手門なども残されていません。
■天守の構造: 本丸上高さ約2mの天守台石垣の上に立つ高さ15.7mの3層3階の独立式天守。きれいな破風の飾り屋根が格式を高めています。
■天守の建造年: 1601年に藤堂高虎が建てた3層3階の天守が腐朽して、伊達家2代目宗利が建て直したのが1666年で現在に至る。
■主な築城主/城主: 藤堂高虎、伊達政宗の子・秀宗のあと代々伊達家10万石の居城
■概要: 宇和島城に入る門は2つあり、駅から近く駐車場のあるのは北東側の北登城口(桑折氏武家長屋門)なので、こちらから城に登ることが多いでしょう。南側にもう一つ搦手側の上り立ち門(薬医門として最大クラス)があり、こちらから城山の生い茂った森を抜けて(遠回りですが)城に登るのも味わいがあってお勧めです。
武家長屋門を移築したもので城門ではありません。右は駐車場、左は三の丸御殿跡 門をくぐるといきなり生い茂った木々に囲まれ、人のあまり通らない苔むした急な石段を登ります 「井戸丸」城内の重要な井戸でした 三之門あと
苔むした石垣の上に天守を望む宇和島城天守のベストアングル 手前が二の丸あと 櫛形門の石段を上がると本丸 それほどは広くない本丸です
飾り屋根がついて、小さくても立派な天守です 天守1階の武者走り 木造天守模型 昔はもっと海に面した水城でした
伊達400年祭のゆるキャラ「伊達にゃんよ」(右)とゲストの弘前城の「たか丸くん」(左) 帰りは二の丸から城山管理事務所のある長門丸の方へ回り、西側から上り立ち門へ出ました 二の丸西側の苔むした石垣は城内で最古の石垣らしい 上り立ち門は武家の正門に用いられた薬医門を移築したもの
備中松山城

■所在地: 岡山県高梁市
■城郭の地形: 山陰と瀬戸内を結ぶ街道沿いの標高430mの臥牛山に広く縄張りを持った城で、日本一高いところに立つ天守です。大手門付近から見える城壁は切り立った自然の岩盤と融合した石垣で高く聳え圧巻です。また、秋冬には雲海に浮かぶ城として人を集めています。
■天守の構造: 自然の岩盤の上に立つ2層2階の天守で、高さが11mと現存で最も小さい天守です。
■天守の建造年: 今の天守は1683年に大改修され、近世の平和な時代の天守に生まれ変わった。
■主な築城主/城主:1240年に秋庭重信がこの場所に城を築いたのが始まりで、毛利氏に統一されるまで攻防を繰り返してきた。江戸時代に入って今の天守を造った水谷勝宗など。水谷家が断絶したあと一時赤穂藩が城を預かり大石良雄が城番となっていた。
■概要: 山の途中標高290mのふいご峠の小さな駐車場に車をとめて(平日のみ)、あとは20分ほど急な坂を登り続けなければなりません。
ふいご峠の駐車場からきつい坂を登ります。途中一息入れさせてくれる気遣いですね 足場の悪い山道をようやく大手門あとまで登ってきました    大手門あと 高い山の上ですが高い石垣で鉄壁の守りです
自然の岩盤を取入れた石垣ですが、岩の崩落が心配されています 三の平櫓東土塀 三の丸 急な登りはまだまだ続く
二の丸に到着。天守がようやく見えました 本丸入り口の門 日本一高いところにある天守。左側の付櫓から出入りする 自然の岩盤の上に天守台を造っています
1階。天井がない高い吹き抜け。床には囲炉裏??火気厳禁では?    2階。神棚があります 本丸、二の丸の向こうに山の下の城下町が見えます 天守の後ろにある「二重櫓」裏側へ出入口になっています
伊予松山城

 
■所在地: 愛媛県松山市
■城郭の地形: 松山市の中心の標高132mの山頂に本丸がある平山城ですが、二之丸、三之丸は麓にあります。二之丸から本丸の間には登り石垣で守りを固めています。
■天守の構造: 天守、小天守、隅櫓を渡り櫓で四角につなぎ、中庭を形成する典型的な連立式望楼型天守です。天守は3層3階地下1階で天守台を含めて28.3mの高さ、標高161mの天守は平山城では最高です。
■天守の建造年: 天守を含む本壇の建物が落雷で全焼し、江戸時代後期(1854年)に再建されたので、残存天守12城のなかで最も新しい。
■主な築城主/城主: 関ケ原のあと、加藤嘉明が築城し、この地を松山と命名。その後に親藩として松平定行が藩主となったので葵のご紋が使われるようになった。
■概要: 火災により何度も建物の消失を繰り返している城です。本壇の天守以外の建物は昭和3年の放火事件により消失し、昭和43年(1968)に木造で復元されました。高い石垣と連なった櫓や折れ曲がった本丸への通路、隠門など戦略的な守りの工夫を見て回るのが楽しい城です。
街の中からロープウェイやリフトで8合目まで。そこからは10分ほどの歩きです 山頂には本丸だけ、広大な三之丸、二之丸は麓にあります 最初に出会う石垣で、高さに驚きます。上は本丸の入口を固める巽櫓が聳える 向こうに見える太鼓櫓
本丸の一角を守る太鼓櫓。ここから180度ターンして筒井門へ向かう 筒井門は上部と側面の櫓から守られている 筒井門の横の付櫓の陰には隠門があって敵をかく乱・側面攻撃する仕掛け 門は埋み門であり、これを突破しても正面には鉄砲狭間が待ち受ける
筒井門、隠門に対峙する渡り櫓があり、守りを固めている 本丸への最後の門が太鼓門ですが、この周辺の守りは鉄壁です 角を曲がっても太鼓門は見えず、巽櫓と渡り櫓から猛攻撃を受けます 太鼓門が本丸への最後の門です。葵のご紋は松平家が親藩だから
本丸には数多くの建物があったはずです 築城者の加藤嘉明の名をとったゆるキャラ「よしあきくん」がお出迎え 本壇への入口に向かう 真ん中に大天守、左が小天守、右の櫓に挟まれて進む
右の一ノ門は陰に隠れています ニノ門、三ノ門、筋鉄門を潜って本壇連立天守の内庭に入る。右が大天守 渡り櫓から内庭を見ています。左奥が入ってきた筋鉄門と小天守 天守の中は天井あり、床の間つきで畳敷きの間がある豪華なもの
天守の上から見る広い松山市街 大天守の東側 本壇の東側の石垣は何度も修復の色の違う石積みが見られる 本壇ニノ門南隅櫓の石垣は石積みがゆるんで隙間が出来ていました
弘前城
「たか丸くん」

  まだ訪問できていないため、写真はありません
  弘前市のマスコット「たか丸くん」とは宇和島城の
  築城400年記念祭で逢いました
■所在地: 青森県弘前市
■城郭の地形: 高さ44.4mの山の上に本丸を置き、その外には二の丸、堀を配して三の丸を置いた梯郭式平山城です。二の丸、三の丸には櫓や追手門他が現存しています。
■天守の構造: 3層3階の独立式層塔型と言われる天守で、高さは14.4m。築城当初は5層の天守でしたが、落雷で爆発消失し、櫓の再建と称して幕府の承認を得て現在の西南の隅櫓の位置に天守が再建されました。そのため別名・御三階櫓と呼ばれていました。現在は石垣の工事のため場所を移動しています。工事の終了は2025年以降になりそうです。
■天守の建造年: 1611年に5層の天守で築城されましたが消失、1810年に現在の天守が再建されました。
■主な築城主/城主: 関ケ原のあとに弘前藩ができ、2代目の津軽信枚が築城、9代・津軽寧親が現天守を再建。
■概要: 天守下の石垣がふくらみ、崩落の危険がでたため、天守を曳き屋工法で場所を移動させています。